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八角の歴史HISTORY

一軒の屋台から、
借金1億円の店を立て直した男

兵庫県加古川市に本社をかまえ、「らーめん八角」「うまいもん横丁」「ぱっぱ屋」「たこの壺」のブランドで、庫県下に直営17店舗、FC16店舗、計33店舗(2017年/01月時点)を展開する株式会社八角。

地元、播磨地域にこだわって集中出店、そのユニークな運営システムが話題となり、テレビや新聞社、雑誌と取材が後を絶たない。会社はもちろん、代表取締役社長をつとめる二代目、大西慎也にも注目が集まっているのだ。

一軒の姫路のラーメン屋台から始まる、株式会社八角・大西慎也のストーリー。1億円の借金をかかえながらも、失敗を恐れずに挑戦を重ね、共に働く社員・スタッフのハートをつかみ、ただひたすら前を向いて突っ走ってきた。

現在、展開する33店舗は全店舗が黒字経営。地元密着、高校中退の二代目、借金1億円企業の黒字化。大西慎也が実践してきたことには、成長し続けるための独自の原理原則、地元愛、そして社員・スタッフへのアツい想いが数多く隠されている。

壮絶な人生を全力疾走する大西慎也は、自叙伝「手作り屋台から生まれた“やりすぎ”飲食店経営」を2017年1月に出版。自叙伝はゴールに達したから出したのではなく、新たなスタート。「お客様に“うまいっ”と言ってもらうため、八角はまだまだ進化する」と断言する大西の真意に迫る。

HISTORY1借金1億円の保証人、
バブル崩壊、夢の断絶

……父は加古川市・姫路市を含む播州地方で喫茶店と居酒屋を経営していました。地元では誰もがその名を知るほどの有名店で、最盛期には11店舗を有していました。幼い頃からそんな父の姿を見て育った私は、一刻も早く飲食業界で腕を磨きたいと決意して高校を中退。父が営む居酒屋の店長として一軒を任されました。

ところがその直後、バブル崩壊の影響を受け、父の飲食ビジネスは一挙に経営不振に陥ります。次々と店を閉め、規模を縮小。知らぬ間に私は父の保証人として1億円の借金を背負っていました。居酒屋で修業を積んだのちいずれは和食の道へ…、思い描いていた夢への道は完全に閉ざされました。19歳で1億もの借金。とにかく日銭を稼がなければなりません。ある日、父は手元に残していた居酒屋の駐車場に屋台をつくり、ラーメン屋を始めることを思いつきました。

1994年から、私は居酒屋と、4坪の空間に屋根と柱だけを組んだ簡易なラーメン屋台の店長を兼任することになります。家賃ゼロ、人件費ゼロ、誰も雇わず1人で切り盛りできるよう、作業効率のいい八角形のカウンターにしたのが、店名「らーめん八角」の由来です。

駐車場に建つ、手作りの屋台がおもしろい!と話題になりました。居酒屋で飲んだあとのシメにもちょうどいいと繁盛し、屋台2号店、3号店と出店、同じスタイルで5店舗まで拡大しました。とはいえ、借金の額は一億円と半端ではありませんから、一向に減りません。屋台の利益だけでは返せる金額がたかがしれていたのです。

HISTORY2らーめん八角誕生。
父への反骨精神が
自分のモチベーションに

2000年、勝負をかけるのなら今と父を説得し、初めての大型店舗「八角播磨本店」を開店。同時に「有限会社八角」として法人化。

この大型店をモデル店舗として、屋台店舗を除々に撤退、低迷していた居酒屋をお好み焼き店「うまいもん横丁」に業態転換するなど、事業を整理していきました。会社組織となり、それまでに増して父とぶつかりあうようになりました。頑固で自分の考えを正しいと信じて疑わない性格の父。屋台の頃から「親父はすごい人」「お前は所詮2代目」と周りに言われるのが嫌で、「必ずいつか、父を超えてやる」と心に誓っていました。

大型店舗では初めは醤油らーめん1本で勝負していました。しかし、屋台と違って大型店にはファミリー層や女性グループなど色々なお客様が来店されます。ラーメン+レストラン的な業態に変化していかなければならないと思い、父の反対を押し切って、味噌らーめんや塩らーめんも提供しました。

やみくもにラーメンの種類を増やしたのではなく、事業を拡大するための方向変換です。結果は吉と出て、色々なラーメンがバランスよく売れるようになり、売上も飛躍的に伸びました。

HISTORY3経営状況を数字で見ることで
V字回復を果たす

父を越える───
次は全国展開を目指し、2008年に岡山県の水島のショッピングセンターに出店しました。膨大な出店費用を投じてフードコート内に、「ラーメン」「たこ焼き」「焼きそば」「パンケーキ・ハンバーガー」の4店舗を八角ブランドでオープンしました。

しかし、いざ開業してみると慣れない土地での店舗運営、大手商業施設ゆえの多額の経費、さらにはリーマンショックまで起こり、水島の街の活気が一気にダウン。結局、オープンからたったの9か月での閉店・撤退を余儀なくされました。

この失敗がターニングポイントとなります。当時の私は代表でありながら、経営に関してはずぶの素人。数字管理も現場に任せきり、試算表や損益計算書は、その見方もよく分からない状態でした。会計士に教えを乞い勉強しようとすると、現場主義の父から「そんな暇があるならば、現場に行け」と叱咤されるのですが、一念発起して経営の知識を養い、改めて自社の経営状況を数字で見て、いかにムダが多かったか思い知りました。売上の推移、経常利益、経費の使い方など、拡大ばかりに目を向け、足元が見えていなかったのです。父は「従業員に会社の売上数値を見せるな」と言っていましたが、私は店長に経営感覚を身につけさせることも大事と考え、自ら作成した過去の試算表を元に各店の店長と面談。店の課題が浮き彫りとなり、解決方法も自ずと生まれました。

経営が追い込まれていたからこそ、これまでの父の経営方針を一転せざるを得ない状況だったのです。父のYESマンになっていては状況が変わらないからです。根拠のある数字を打ち立て、売上と利益の目標値を決める。目標を達するために頑張ったお店には褒賞金を出すなどしてやる気を引き出し、本部社員、店長、現場スタッフと思いを一つにして頑張りました。2010年には「株式会社八角」に組織変更、2011年からは全店舗が黒字転換、V字回復を果たし、借金を返済することができたのです。

HISTORY4ネガティブをポジティブに、
兵庫で1番になる

父は「自分で考えろ」が口癖で、何一つ教えてもええませんでした。いろいろ苦しい経験を積んできましたが、全て父に対する反骨精神があったからこそ克服できたと思っています。試行錯誤しながらも、自分で考える力だけは培ってきたので、父から何も教わらなかったことは逆にプラスだったのかもしれない。ネガティブな要素を全てポジティブに変換させる、毎日が必死でした。

同じことしていても決して売上はあがりませんから、絶えず変わっていかなければなりません。数々の販促キャンペーンを打ち出しました。毎月8の付く日に餃子を88円でサービスする「88餃子」、4の付く日の「88唐揚」、「生ビール10円」「八角宝くじ」…など。

「何かいつも面白いことをやっているお店」とお客様に覚えていただけるようになりました。岡山の出店で失敗し気が付いたのは、地域によってお客様やその背景にある文化が違うということです。だからこそ今は地域に根ざし、兵庫といえば、八角と言われるようになりたいと思っています。

「らーめん八角」では、セントラルキッチンを持たず、餃子・唐揚・チャーシュー・焼飯・醤油ダレからスープに至るまで、全てを店舗で手作りしています。画一した味ではなく、「ここでしか食べられない!」ラーメンを作りだすため、店内仕込みにこだわり、手間ひまかけてメニューを作り上げています。市の依頼を受けて開発した「姫路らーめん」のメニュー化で、地元のみなさんにより一層親しんでもらえるようになりました。姫路はおでんに生姜醤油を使う「姫路おでん」や生姜の入った「姫路ハイボール」など、生姜推しで有名です。そこで研究を重ねて、姫路特産の生姜と醤油を用いた「姫路らーめん」を完成させました。姫路城をかたどった海苔が目をひき、ご当地ラーメンとして贔屓にしていただいています。

また「うまいもん横丁」では粉やソースにこだわったお好み焼きをはじめ、最高の食材の鉄板料理を提供しています。お客様自ら作れるソフトクリームや懐かしい駄菓子コーナーなど、3世代が笑顔になれる、昭和レトロな雰囲気も好評いただいています。今後もさらなる地域密着・貢献に努めて兵庫県一番店を目指し、それを果たしたのちに、全国的な知名度アップ、ブレークへと進んでいければと考えています。

HISTORY5夢は必ず叶えられる

2012年、正式に社長に就任しました。10代にビジネスを始めて、20代はとことん修業の毎日。30歳で勝負をかけて、40歳の今は、社員たちを経営者にしたいと日々奮闘しています。いつかは店を持ちたいという希望をもって入社してくる若者に、私自身がマイナスの逆境から這い上がり、独学で身に付けた経営のノウハウを伝授することで、独立志望者を支援したいと考えています。

50代になるころには、社員たちを八角のFC経営者として世に出して、たとえ競争相手になったとしても、共に切磋琢磨していきたい。そして、いつか私のもとから独立した経営者や代表を全員集め、みんなでここまで来れて良かった!とその達成感を一緒に味わうことが夢です。経営やビジネスでは日々、壁にぶつかることの連続です。目標設定のための努力と達成感、常に危機感を持ち、何か問題があれば、解決方法がないかを徹底的に考える、その繰り返し…。地道な努力と変換。今までの習慣ややり方に固執せず、自らを信じて突き進めば、無謀と思えるような夢も必ず叶えられると、私は本気で信じています。